| ■イソザキ時計宝石店■ |
| 時計の小話 |
第286話(MOVADO(モバード)No、2) 今月から名門時計会社「MOVADO(モバード)」を正規取扱いする事になった理由は、 シンプルなデザインの優秀さもさることながら、時計造りに対する真摯な姿勢が 好きだったからです。 小生が若い時から愛用してきた「ユニバーサル」の時計造りに 一脈通じる所があります。 1950年代から70年代の機械式時計全盛時代にモバード社はロレックス、 インターナショナル、ジャガールクルト、ロンジン、ユニバーサル、オメガ等の マニュファクチュールと比較しても全く遜色しない見事なムーブメントを 造り続けてきた会社でもあるのです。中でもゼニス社(エルプリメロ)と共にハイビート10振動の自動巻クロノグラフ (デイトロン)を共同開発した実績があるように、 手巻きクロノグラフムーブメントにおいても素晴らしい機械を製造してきました。モバードのCal.90MとCal.90は二つ目のインダイアルを持った手巻きクロノグラフで、 ロービートの18,000振動、チラネジテンプ、ピラーホイールを装備した優れた クロノグラフの機械でした。 特にCal.90はメンテナンスが非常にし易くユニット構造式になっていた為に、 ゼンマイ交換等の修理作業においては、たやすく出来るように設計されていました。1970年代頃まで製造された、横並び三つ目のインダイアルを持った 手巻きムーブメントCal.95Mは、当時のロレックス・デイトナと二分するほどの 仕上がりが完璧な腕時計でした。 (そう言えばどちらも非常によく似たシンプルのデザインになっていました。 当時のクロノグラフの人気はほとんど無く、今日の爆発的な人気と違って 一部のマニアの方からのみの、どちらかと言うと静かな人気と言えました。店によってはロレックス・デイトナでさえ売れ残った店もあったほどでした。) 現在アンティークファンに圧倒的な人気があるのは、その当時のモバードの クロノグラフです。 生産された量も少ないと思われるので、市場に出ている数も限られ、 ユニバーサル・トリコンバックスと共に 余計にアンティーク時計ファンから垂涎の的のように思われています。アンティークの自動巻ムーブメントCal.223は自動巻ローター錘が 独特の形状をしており、当時のジャガールクルトの自動巻ムーブメントに 見られたような、ケースの内側にバネを取り付けてローターが半回転するように 設計されていた、珍しいタイプでした。 第287話(修理環境について) 地球温暖化の影響でしょうか?北国である小生が住んでいる白山市でも、 真冬の今、エアコンを23度に設定していれば、時計修理作業になんら 支障はありませんし苦痛な事は全くありません。 湿気もなく快適な環境と言えるかもしれません。今から、35年程前、滋賀県湖北地方の長浜で父の元で、仕事をしていた時、 湖北でも真冬になると、『かまくら』を庭に造れるほど降雪がありましたし、 軒下に2〜30センチの氷柱(つらら)が出来る程、朝は冷え込みました。 当時、冬の時計修理作業をする時は大変で、店内に石油ストーブ (当時はクリーンヒーター、フャンヒーターもなく燃焼効率の悪い石油ストーブが 有るだけでも良い方でした)が置いてあっても、店内の温度はかなり低く、 修理作業をする時、手元に小火鉢を台の上に置いて作業をしました。手が冷えてくると細かい作業は大変なので、火鉢で手を温めては、 修理作業をする繰り返しでした。 足下には、今から思えば懐かしい電気足温器を置いて足を温め、 膝には小さな毛布を掛けて仕事をしていました。 来店客が店に来れば小さな毛布をとっては接客していました。 修理作業環境は現在では、昔では考えられないほど良くなったものと思います。真夏になると、当時どこの商店にもクーラーも無く、 扇風機を回して涼を取っていました。 (団扇をお客様に当たるように手を振りながら会話をしたりして、 のんびりとした時代でもありました) 時折、道路に打ち水をして一時的な涼を取ったりしていました。 でも100ワット白熱球の元で修理作業する事は大変で、ほとんど効果も無く額や、 手の平、甲に汗をかきながら仕事をしたものです。 部品等を跳ばしたりしたらドッと緊張して下着を替えなくてはいけないほど 汗を全身にかいたりしたものです。その頃の商店はどこも、店の玄関口を大きく開けていた為、 蚊や蝿が頻繁に入ってきて仕事の邪魔をしたりしました。 夜遅くまで作業をするときなどは蚊取り線香を机の下に置いてはやっていました。 機械式時計の修理には、汗が禁物で当時、私は一日に何十回も手を 洗った記憶があります。 (昔、諏訪精工舎時代では汗のかきにくい体質の技術者の方が重宝されたと 聞き及んでいます) そんな劣悪な環境の中でも、どの時計店の店主も販売をしながら一日に、 3〜4個の時計修理をしていた事を思えば、 今になってみれば、大変な仕事の量だったと、思い出します。大都会の都心は、別ですが、地方の小都市の駅前商店街は、 どこもシャッター通りになりつつあり寂しい感じがします。 昔は、車で通勤している人がほとんど無く、鉄道、バス等で通勤される人が 多かったので、駅前にかなりの人が小さな町にも集まりました。 朝早くから、駅前商店街は、大いに賑わい、どの店も活気に溢れていました。店内が一番賑わったのも朝か、夕方の夜以降でした。 八百屋さんなどは人が多くて店に入りきれないほどでした。 商店の変容の様変わりも急激で、昔の懐かしい味わいのある商店街が 減少しているのは、本当に寂しい気がします。 当時は頑固一徹の職人気質の商店主が多くその店その店、 独特の雰囲気の個性的な店がありました。小生の商店街も『おかみさん会』を作ったりしていろいろと活動しています。 しかし、多勢に無勢でなかなか近隣の大型ショッピングセンターに 対抗することは大変なようです。 第288話(IWCインヂュニアの復活) IWCファンの方にとっては、待ちに待ったと言える、 あの腕時計歴史に残る『インヂュニア』が最近、復活しました。 それも、インターナショナル時代からの、独自の発想のベラトン自動巻機構を 採用した、自社開発のムーブメントCal.80110を搭載しての再登場でした。インヂュニアと言えば、時計ファンなら誰もが知っている超耐磁性機能を持った 優れた腕時計です。 軟鉄素材のインナーケースで、ムーブメントが保護されている為に、 磁気の影響を受けやすい発電所等の職場の技術者やX線は扱う医師の方に、 根強い人気があった時計です。 インヂュニアは、弊店の修理履歴にも紹介していますが、1954年に初登場をしました。 ムーブメントCalは、852、8521、853、8531へと発展していき、 微細精度調整が出来るブレゲヒゲの高精度腕時計でした。当然このムーブメントは、インターナショナルが開発した自社生産 ムーブメントでした。1993年以降の、インヂュニアのムーブメントCal.887、887/2(36石)は ジャガールクルト社からムーブメントの供給を受け、 ケースの厚さも出来うる限り薄く仕上げているデザインが秀逸な綺麗な腕時計でした。 このジャガールクルトのムーブメントは、非常に繊細な薄型の自動巻の為に、 オーバーホールする時に、極めて緊張感が漂う修理作業になります。その頃のマーク12も、同じくジャガールクルトのムーブメントを採用していました。 (アンティーク市場でも耐磁性能力に優れたロレックス・ミルガウスと共、 IWCインヂュニアはにとても人気のある時計と言えます。) ここ10年、IWC社は、マーク15のムーブメントのようにETA社のムーブメントを 多く採用していましたが、この理由はリペアリングがJLの機械よりも 容易であったためと推測しております。 最近売り出した、『ポルトギーゼ』に搭載されたCal.5000、 『ビッグパイロットウォッチ』に搭載されたCal.5011は、 マニュファクチュール化してIWC自社開発のムーブメントを搭載している事は、 嬉しい限りと言えます。惜しいかな、この新発売のIWC・インヂュニアオートマチックの予定価格が \777,000もする事です。 もう少し、価格を抑えて、日本で発売していただけたらどんなに嬉しいか、 わかりません。 第289話(万年時計について) NHKのニュースによりますと国立科学博物館とセイコーと東芝は、 何と100人の技術者を導入し1年間をかけて、田中久重(からくり儀右衛門)が 製作した1851年製の万年時計「万年自鳴鐘」を修理・復元し 平成17年3月8日に起動式を行ったそうです。万年時計「万年自鳴鐘」は3月25日に開幕する愛知万博(愛・地球博)で公開し、 その後は東芝科学館(神奈川県川崎市)で展示する予定だそうです。 まさしく一見の値のある古時計です。 田中久重は、江戸時代末期に筑後に生まれて、からくり人形の最高傑作 『弓曳童子』を作ったこととして有名です。 又、田中久重は日本のエジソンとも言われていて佐賀藩から招聘を受け 日本で初めて蒸気機関車を作った事でも有名です。 彼の弟子等は初期の東京帝国大学・工学部の教授になり、 現代のラジオ、テープレコーダー、テレビ、ファックス、携帯電話の出現を 明治時代初頭に予言するほど極めて優秀な頭脳集団を育成しました。田中久重(からくり儀右衛門)は東芝の創業者でもあり、 弟子の中には沖電気の創業者になった者もいました。 和時計(自鳴盤)を日本で最初に作った人と言えば 徳川家康に仕えた尾張の津田助左衛門がその人です。 名古屋地方に時計産業(高野時計、リコー時計)が芽生えたのも 津田助左衛門が大きな影響は及ぼしているに違い有りません。 津田助左衛門も田中久重も手先が器用なこともさることながら 独創的な発想でいろんな機械を作り続けました。田中久重の万年時計(自鳴鐘)の大きさは、高さが約60cm重さが約38kgで 2組ある真鍮製の強いゼンマイを巻くことで、1年間動く設計になっている 驚異的な仕組みです。 側面には、四季によって変化する和時計やフランス製の懐中時計など、 6種類の時計を埋め込んでいる当時としては天文学的数字の 価格の時計であったと言われています。当時の時法は不定時法を取っていたために月によっては昼間と夜間の長さが 異なるために田中久重は天才的な発想で特殊な歯車を作って 是正できるようにしていました。 和時計には台時計、櫓時計、枕時計、雛飾時計、尺時計等いろいろがありましたが 日本人はもともと時間に厳格で几帳面で時計を愛する土壌が 昔よりあったものと思われます。 第290話(昔の自動車時計について) 先日、高級時計をお買い上げ頂いたS氏からメールを頂いたのですが、 その方は40年ほど前、自動車メーカーに勤めておられて、 自動車時計の設計を担当されていたそうです。 当時の自動車時計は小型モータでゼンマイを巻き上げ、ピンレバー式の 脱進機を使い駆動していたそうです。『自動車時計は使用環境温度(-30度〜80度)と振動(4G)により、 使用環境が大変厳しく、止まらずに動かすだけでも大変な時代でした。 油切れの問題・ヒゲゼンマイの温度特性・振動によるギアのフリクション変化などで 精度も±5分は当たり前の時代でした』と言うメールでした。その頃の置き時計・目覚まし時計・トラベルクロック等は、 全てピンレバー脱進機のメカでした。 (一部、スイス製廉価ウォッチにもピンレバー脱進機は使用されていました) 天真の先端は鋭角な円錐状(メーカーにより異なっていましたが 大凡45度〜55度)になっており、 3〜4年経過すると天真の円錐状の先端部分が摩耗して半円球状になり、 天真受けネジから外れて止まってしまうという故障が多くありました。また、修理の時に天真先端の円錐の角度をあまりにも鋭角にすると、 天真ホゾ受け部分が回転摩擦でえぐられて精度不良の原因になったりしました。 修理を何回もしてきますとその度に天真先端部分を鋭角にするため 砥石で研磨するので徐々に天真が短くなっていき アンクルとの調整も出てきて苦労したものです。 (天真ホゾを砥石で研磨する作業は簡単なようで大変技術のいる作業で その作業を見れば一目瞭然で時計職人の技量が判断できたものでした)天真ホゾ受けネジは摩耗してきたら交換するのが一番ベストなのですが 少しの摩耗でしたらアモール等を掃除木に塗布し研磨して 艶を出して修理もしたものでした。 クロック(ピンレバー式)の輪列車のホゾ穴には低価格のため当然人工ルビー等を 使用していないので、ホゾ穴が油ぎれ等により摩擦が大きくなり 瓢箪のような形に摩耗して、歯とカナが深く噛み合って止まったりして、 故障の原因が多々ありました。その頃の地板は真鍮性が多かった為にホゾ穴はよく簡単に摩耗して タガネでホゾ・カシメ作業を何度も繰り返しして修理したものでした。 何度もカシメをしていますと地板自体が切れてしまい、その時はダメになった 部分の地板を糸鋸で切り、新しい真鍮板を埋め込んで作業しました。 特にガンギ車のホゾが摩耗したときはアンクルピンとの噛み合いが全くダメになっ てしまい直ぐに停止状態に陥ったりしました。またクロックのゼンマイは、切れないニバフレックスを使用していない為に、 ゼンマイ切れの故障も多くありました。 こういうピンレバー式を自動車に搭載する事は、 技術的に大変難しい問題をいくつもクリアしなければならなかったものと思います。その時代は道路事情も悪く、振動・衝撃も今の非ではなく 設計・技術者の方々の大変なご苦労があっったものと偲ばれます。 (そんな安価なピンレバー式クロックでも完全に修理調整すれば静的精度では 日差±40秒前後まで精度を絞れることが出来た機械でした)S氏のお話によりますと、昭和42年頃から自動車時計はピンレバー式から 音叉式にとって替わられたそうです。 S氏のメールによりますと『電子回路が当時大変稚拙でとても車載に耐えない物 でした。自動車の場合電源が大変不安定でノイズが大きく、 いろいろな負荷が作動したときのパルスノイズにより秒針が逆回転した事には 参りました。ノイズ防止の回路を考えては繰り返しテストし、 何度も対策を重ね量産に こぎ着けた事を思い出します』との事で 当時としては音叉式という最先端技術でありながらも自動車時計として使うには 改良に改良を重ねられたことが伺いしれます。現在では自動車時計はデジタルクォーツ時計になったり GPSと連動して駆動する正確無比な時計になっています。 |
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