■イソザキ時計宝石店■
続・時計の小話



第6話(誤った使用方法)

時計職人は一度、仕事に取りかかると、3時間以上も椅子に座り続ける事が あります。 どうしても運動不足になりがちで、若い頃、太かったふくらはぎも次第に 細くなり、下半身が衰えていくと感じで25年程前から、兄、知人の薦めもあり、 ゴルフをしています。 (この年になってもカートに絶対乗らない主義なので知人から怪訝な顔を されて不思議がられています) シチズンにおられた時計師・野元輝義先生は、かって時計専門誌に 時計師体操等を発案して、運動不足になりがちな職人に独特の 体操・気分転換方法を、薦めておられました。 最近、よく見かける光景なのですが、ゴルフの最中に機械式時計 (ロレックス、オメガ・シーマスター)を、腕にはめながらプレイを しておられる人を見かけます。アイアンで地面を叩く衝撃は凄いものと思われ、テンプもその衝撃に 上下左右に激しく振動して吃驚しているに違いありません。 時折、急に止まった腕時計の修理を預かり、裏蓋を開けてみますと、 テンプのテンションバネが外れて、テンプの穴石、受石が機械の中に紛れ込んで、止まった原因を作っている場合があります。また衝撃でブレゲ巻き上げヒゲの上部が変形しないとも限りません。 おそらく、こういう場合、この時計の所有者はゴルファーが多いものと思います。 テンプ、ガンギ車、4番車等に、たとえ耐震装置がついてあったとしても、 激しいスポーツやゴルフをする時は、必ず外して頂きたいものです。プレイ後、風呂やサウナに入る場合がありますが、その時でも ロレックスのサブマリーナやシードゥエラーを 腕につけたまま、平気の人を見かけます。 小生はその時ばかりは、余計なお節介なのですが『いい時計ですので、 風呂とかサウナの時は外された方が良いと思います。』と、助言しています。 いくら、防水機能が高くても、サウナの高温で時計油が変質しないとも限らず、 また、風呂につける事により、水垢や、洗剤のカス、人の身体の脂が付着して、 ケースや、時計バンドを劣化させるやもしれません。先日、わざわざ大阪より、ご夫婦で修理依頼の為にご来店頂いた、 Nさんのロレックス・サブマリーナ・ノンデイトをお預かりしました。 Nさんは、以前にも回転ベゼルが全く動かなくなり、 他店にて交換してもらった事がある、と言っておられましたが、 今回も回転ベゼルは全く動かない状態でした。回転ベゼルを外してみると、ケースとベゼルの間に、脂、ゴミ、埃等が、 目一杯詰まっていて、ヘの字型のバネも錆びておりました。 おそらく、Nさんもお買い上げ店のアドバイスが無かったものと思われ、 風呂、シャワーに常時ロレックスを付けておられた為に、 脂、垢、埃等がベゼルのスキマから入り込んで、 動かなくなったものではないかと思います。どんなに防水性能が高い時計と言えども、風呂、シャワー、サウナ、 の時は外す習慣をつけて欲しいと思います。

第7話(ノモス自動巻について)

昨年末から、ドイツ・グラスヒュッテに本社を構えるノモス社が、 新開発の自動巻ムーブメントを完成した、という噂を聞きました。 今春のバーゼルフェアで、その新開発の自動巻ムーブメントが お披露目されました。『タンジェント・オートマチック(タンゴマチック)』と命名された ムーブメントは、ノモス社の新進気鋭の29才の時計師『ミルコ・ハイネ』氏が 開発した、エプシロンを搭載されています。 (現物はまだ見ていないのですが写真からはシンプルで美しい機械のようで 惚れ惚れします)ムーブメントの直径は、34.65mm、厚さ4.3mm(ケース径38mm、ケース厚さ8,3mm) の見事な薄型自動巻に設計されています。 2006年春に、249,900円(販売予定価格)で、発売される予定です。日付無しが125個、カレンダー付きが125個、計250個が既に製造を終え、 一年間の動作テストを終了して、一年後に再度オーバーホールをして 市場に流すという手間のかかる事をするという話を聞きました。 まさにドイツ人気質を如実に表していると思います。この完璧なまでの拘りと合理主義は、同じドイツから生まれている ランゲ&ゾーネ社も一定期間のテスト試行をしてのち、 再度オーバーホールをしてユーザーに渡すという、 とても手間がかかる事を当たり前のようにしています。 徹底した完璧な合理主義の賜物では無いかと思います。小生の兄が商社に勤務していたころ、フランス、イタリヤ、ドイツを 毎年訪問していたのですが、聞く所によるとドイツの街は、理路整然として 綺麗で、ゴミもほとんど落ちていなかったと、よく聞かされていました。 昔からドイツ製の工作機械や、飛行機、自動車は、優れたものが多いのですが、 それはドイツ人の妥協を許さない気質が、脈々と引き継がれていたからに 違いありません。 ノモス社はマニュファクチュールを目指して、地板等も自社生産に 切り替えました。 従来の普及品であったプゾーCal.7001が、高精度が保持されているのも、 スイス高級腕時計にしか採用されていない微細精度緩急針機構 (トリオビス・ファイン・アジャストメント)等を採用し、 ノモス社独自で高精度が出るように調整しているからです。 来春の発売がとても楽しみなりました。一般的に『手巻き』のオーバーホールは簡単な様に、おもわれがちですが ノモス・タンジェント・デイトなどは、分解・組立・調整に 細心の注意を払わなければ大変な事になります。 先日もN市の方から、タンジェント・デイトのオーバーホールの依頼を 受けたのですが、その方は誤ってノモスを水の中につけてしまい、 機械の中に水が入り込み、慌てて近くの時計店に修理依頼をされた所、 輪列地板、テンプ受け地板等に傷を一杯つけられ、 弊店に修理・交換依頼が来ました。スケルトンの場合、手巻きといえども細心の注意を払って修理作業に 取りくまなければ酷い目に遭う事の顕著な一例です。

第8話(小林敏夫先生について)

日本における、時計技術向上の為に尽力をつくされた大恩人と言えば、 一橋大学の山口隆二先生をまず第一に挙げなければなりませんが、 山口先生と匹敵するほどの、恩人が小林敏夫先生です。 山口先生の努力により昭和28年、米国時計学会(HIA)の日本支部が 誕生しました。 理事長に井上信夫先生が着かれ、いろんな煩雑な業務を小林先生が 一手に引き受けられ、翌年の昭和29年9月に日本時計史に残る第一回、 CMW(公認高級時計師)試験が、挙行されたのです。 学科問題等は英文にて送られてきたため、小林敏夫先生が翻訳して 第一回受験生の角野常三氏、末和海先氏に渡されたのです。当時は、延べ8日間の試験日程で、1日目が学科試験、 2日目が自動巻腕時計の分解掃除 3日目が旋盤による巻き真製作 4日目が旋盤による天真製作   5〜8日目が懐中時計の分解掃除、修理調整でした。 このCMW第一回試験を受験すべく角野常三先生は、ご自宅を売却されて、 当時としてはビックリするほど高価なビブログラフ(歩度検定器)と 万能投影機を、購入された事は、今日まで時計業界の語り草になっています。阪大を出られた、小林敏夫先生は、守口公共職業補導所を経て、 日本時計師会会長、大阪府立生野工業高校校長を歴任して、 若手時計技術者の育成、日本時計技術向上の為に一生の間、全力投球で 尽くされたのです。(府立生野工業高校・時計計器科の設立にも尽力をされました。 今日の機械式の復活を見るにあたり、唯一の公立の時計技術高等科が1986年に 消滅したことは慚愧に耐えません。 時計計器科の卒業生は29年間で延べ1,581名にのぼり現在この時計業界の屋台骨を 背負っていることは紛れもない事実であります。 時計計器科の教諭でおられた杉田昌幸先生は教職の傍ら CMWの試験にも合格された方でありました。)小林敏夫先生著の基礎時計読本は今なお時計技術者に愛読されている名著であります。 小生が、昭和46年度のCMW試験に合格した時、小林敏夫先生は、 日本時計師会の名誉会長の地位におられ、合格認定式の時に井上信夫先生と共に、 心温まる祝辞を頂きました。日本にCMW試験導入という大功労者の山口隆二先生と、 小林敏夫先生がおられなかったら、日本がこれほどまでに世界で有名になった、 時計産業はしっかり根付かなかったものと思っています。 両先生の熱情に打たれてシチズンの岩澤央氏や、オリエント時計の加藤政弘氏、 セイコーの遠山正俊氏、久保田浩司氏が、時計技術向上・発展の為に 動かれたのです。偉大な足跡を残された小林敏夫先生も一昨年82才で逝去されたことは 残念の極まりでありました。

第9話(生野工業高校時計計器科について)

小生が昭和46年、CMW試験を受験した場所は、 大阪府立生野工業高校時計計器科の教室でした。 そのほかにも、受験者数が定員に達していれば、2名のCMW立ち会いの元、 東京、名古屋、鹿児島でもCMW試験が、毎年行われました。一次試験は、学科と旋盤作業のみでしたので、荷物はさほど多くはなかった のですが、二次試験になると荷物がどっと増え、超音波時計洗浄機、 時計用小型精密旋盤、タイムグラファー、双眼拡大鏡、タガネ等を その頃の小生の愛車であった日産サニーに詰め込んで、大阪へ行きました。当時は、名神高速道路と言えども、そんなに車の量が多く無くて、 割とスムーズにビュンビュン飛ばして大阪市内まで着いた事を今でも、 覚えております。 (今では名神高速道は一般国道並の混雑さでとても疲れてしまうのですが 当時はガラガラと言った方が適切だったかもしれません)生野工業高校時計計器科は1957年(昭和32年)に設置され、 電子機械科(現在では)に変更されるまで、 29年間に1800余名の卒業生を排出しました。 卒業生は、多くは時計業界に就職し、愛知時計電機、カシオ計算機、キャノン、 シイベル時計、オリエント時計、松下電器、松下電工、掘場製作所、島津製作所、シチズン、セイコー、シャープ、日立製作所、リズム時計、リコー、 ミノルタカメラ、ロレックスサービス等の有名企業へ、飛び立っていきました。在学3年間ミッチリ教え込む教授陣には、小林敏夫先生を始めとして、 アメリカ時計学会よりヘイガンス賞を授与された下土居隆三先生、 教諭でありながらCMWを獲得された杉田昌幸先生、 非常勤講師には、CMW取得者の日本時計師会会長・飯田茂先生、 日本時計師会・飯田弘理事、岩崎吉博理事、北山次郎理事先生等の 32名の錚々たるメンバーが揃っておいででした。 (諸先生の熱心な教育指導のお陰で卒業生の中にはCMWの合格者が 少なからず出たのでした。)公立の高校に時計技術を専門に教える科が出来た要因には、いろんな多種多様な 要望があった訳ですが、一番の原因は当時、大阪の時計眼鏡商業協同組合の 理事長をしておられた、尚美堂社長、江藤順蔵氏 (日本時計師会・顧問の重責も担っておられました)の言葉から、 汲み取る事が出来るのではないか?と思います。『公平な目で現在の時計修理師を眺める時、正しく時計修理の出来る人は、 誠に微々たるものであり、10人に1人、否100人に1人あるやなしかの様であり、 全国3万と称せられる時計師に、自己の時計を安心して、託しうる事の出来る 人を求めても、100人を探し得ないと、断言してはばからないのであります。 現在、日本で一日数秒以内の誤差に製作された時計を、いつでも必ずその誤差範囲にとどめ得る修理師は、全く数えるほどしか、ありません。』という、江藤氏の言葉が、発露となって、一橋大学の山口隆二先生、 大阪大学の篠田軍治博士、大阪府立大学の石田道夫教授等が動かれ、 メーカーのセイコー、オメガ、松下電工、アメリカベンラス時計会社等が 教材を無償提供して時計計器科が発足したのです。現在、近江時計学校、ヒコみずの時計学校、 東京ウォッチ・テクニカム校を 卒業するには、2〜3年間で、400万円もの高額な授業料が必要ですが、 生野工業高校・時計計器科は、当時の超一流の教授陣を配しても、 わずかな授業料で卒業出来るという、公立高校ならではの非常に大きな メリットがあった訳です。(上記の近江時計学校、ヒコみずの時計学校、 東京ウォッチ・テクニカム学校に 学んでいる恵まれた生徒以外の、素質があっても金銭的に余裕がなく 入学できない将来性ある若人技術者を掘り起こさなくてはいけないと 思っております)資源の乏しい日本では加工技術特に、精密分野において世界をリードしてきた 自負がありますが、これだけの時計、カメラ等の精密機械産業が隆盛している 現在、公立の時計学校を再度、設置しなければならないと思うのは 小生一人ではないと思います。スイス時計産業がが、セイコーのクォーツクラッシュによって 大ダメージを受けたにも関わらず不死鳥の様に今日蘇った大きな理由は、 複数の公立の時計学校が継続して存続し、若手の優秀な時計技術者を毎年毎年、 業界に送りだしてきた賜物ではないか?と思っております。 政府(文部科学省)、地方行政機関のトップの人々には 是非考慮していただきたいと願ってやみません。

第10話(ブローバ時計学校)

私が時計技術を身につけようと思いついた時、それこそ繰り返し何度も 読みあさった本があります。 それは末和海先生が翻訳された『標準時計技術読本』という専門書です。 この時計技術叢書の原典は、アメリカのブローバ時計学校の教科書でありました。 時計修理技能士試験や、CMW試験を受験する時に隅から隅まで何回も読み、 自己の技能・理論の研鑽を積み上げる土台になった有り難い教科書でありました。アメリカにも過去に於いて1945年、ニューヨークにブローバ時計学校が 設立されました。 正式の学校名は、『ジョセフ・ブローバ・スクール・オブ・ウォッチメイキング』であり、ブローバー時計会社の初代創立者の名前『ジョセフ・ブローバ』が つけられた訳です。ジョセフ・ブローバ氏が、何故時計学校を設立したか?と言えば、 第二次世界大戦終了後、未来ある若人が傷痍退役軍人となり、身体障害者となって生きる術を一時的に見失い、人生に対して落胆している姿を見るに及び、 なんとか社会復帰させるべく思案して、手に技術をつけさせたら良いのでは ないかと思い、私設の時計学校を設立された訳です。ブローバ時計学校の修業期間は2年間で、全寮制(食事付き)であり、 驚くべく事実は、授業費用等が全て無料であった、という事でした。 ブローバ時計学校の運営費用は、全てブローバ時計会社による利益還元により、 全て賄われていたのでした。 そういう事実があった事に、60年前のアメリカの経営者の人間性豊かな資質に、 賛嘆せざるをえません。今から40年ほど前、ブローバ音叉腕時計の日本総代理店であった、 『一新時計』の社長西村隆之氏は、このブローバ社の社会事業にいたく感銘を 覚え、日本からも、身障者2名を米国ブローバ時計学校に留学させる事を 思いつき、それを実行されたのでした。このブローバ時計会社はその後、世界中に門戸を開き、1000人以上の優秀な 時計技術者を卒業させたのです。 日本の時計会社、輸入時計商社の経営者もこの事実をしっかり把握して、 今後の時計技術者育成の為になんらかの努力をしていただければと 願っております。


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